ガネーシュヒマールの観音様と緑ターラ菩薩

ガネーシュヒマールの観音様と緑ターラ菩薩
発売情報

よいお顔の像に会えたら仕入れております。
ヒマラヤ山脈、ガネーシュヒマール産のクリスタルで作られた観音様グリーンターラー菩薩様です。

観音様とは思ってなかった

何気なくお顔がいいと思って仕入れたものの、「だいたい全部ターラー菩薩様だよね」くらいにしか思っていませんでした。
しかし背の低い像のほうは両手にお花を持っているのだと思っていましたが、お花だと思っていたのはでした。4本腕となると誰かほかにいらっしゃるな…と探してみましたらすぐに見つかりました。観音様でした。
そうなると背の高い像も特徴的な胸が彫られていない気がしましたし、ターラー様ではないのかも??と疑念が出てきましたが、こちらはグリーンターラー菩薩様としてよく彫刻されているスタイルのようでした。グリーンターラー様は行動的な菩薩様なので、立ち姿が表現されるのかもしれません。

六字咒観音菩薩(シャドゥクシャリー・アヴァローキテーシュワラ)」と呼ばれ、「オンマニペニフム」のチベットの観音様を称えるマントラにまつわる様式です。
この「咒(じゅ=呪、字咒でマントラの意味でしょう)」は読まないみたいですね、どうなんでしょう。この文字を抜いた「六字観音菩薩」という表記も見かけます。

オンマニペニフムとは

この真言はいろんな解釈が見受けられます。なぜなんだと思いましたが、要するに「他言語に翻訳するのが難しい」ということのようです。日本語もそういう説明の難しい単語が多いので、同じようなことなのでしょう。チベット密教もいろいろな宗派と歴史がありますので、宗教的解釈もいろいろなのかもしれません。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトに掲載されている、ダライ・ラマ14世による解説を見てみました。

これら六つの真言は、私たちの不浄な身体・言葉・思考を、完全に統一された秩序と知恵の教えの道に導くことにより、仏陀になれるということを意味しているとのことだ。

(以下、要約)

オムが私たちの不浄と、釈迦の高尚純粋な身体・言葉・思考。(悟りを開けば浄化される)
マニが宝石を意味し、秩序、慈悲、他者への思いやりなど悟りを開くための要素。利他主義の心。
ペメが蓮を意味し、泥の中に生えていても泥に染まらない、私たちを矛盾から救い出す知恵の本質。
フムが、分離できないもの、秩序と知恵の調和により至る純粋な境地。

美しい説明ですね。
昔は検索しても「おお、泥の中の蓮の宝珠よ」的な観音様を称える言葉としての文言しか出てこなかったような気がしますが、時代は進みました。

さて真言を唱えることに意味はあるのか?という疑問ですが、以前に沙夜あやこ先生にインドで修行をした経験を聞いたことがあります。
その修業は習得するテーマにより、対応した真言を決まった回数唱えるのですが、マーラーを触るときに使う指なども決められておりました(時間も決められていたかもしれない、うろ覚えです)。途中でしくじると最初からやり直しで、なかなか厳格なものでした。
「やってみて感じたのは、真言を唱えるのはリズムを作ることで、音と時間による幾何学を自分で描いているようだった」と仰っていました。すごい。やってみた人にしかわからない感覚を、言語化してもらったように感じます。
数字の存在するもの(回数、文字数など)は幾何学的な経験をするということなのかもしれません。

仏像について

像を扱う上で心に留めているのは、お釈迦様が「私の像はつくるな」と仰ったことです。
その言葉通り、お釈迦様が生きておられる間はつくられなかったのですが、没後ずいぶん経ってから作られるようになりました。
今回そのことを改めて調べてみて、面白いなと思ったのでご紹介します。

お釈迦様はそれぞれが自らの知恵により苦悩を乗り越え、悟りを開くように説いていたので、自分以外の存在に救われようとする姿勢はNGでした。
お釈迦様の没後は菩提樹、足跡、ターバン、ストゥーバなどがお釈迦様アイコンとして使われていました。お釈迦様は偉大な存在であり涅槃に入られたのだから、人型なのも、目に見えるのも変だという考え方や、神様仏様はすでに共にあり儀式に参列しているので、改めて像を作って再現する必要はないと考えられていたという説もありました。

ガンダーラにてお釈迦様が活動しているレリーフが彫られ、そのうちにお釈迦様が単体となって彫られるようになり、仏像となったと言われています(同時代に他場所でも存在?諸説あり)。
ちなみにその前から、インドには現世利益に関係した神様を擬人像化して表現する文化がありました。像が作られることと布教・お布施の文化が関連していると考えている方もいらっしゃいます。

私としては、お釈迦様は人なので人間の形となることは容易にイメージできます。観音様などの神格の存在は、なんらかの調和のとれた強い自然(宇宙)エネルギーを擬人化して理解しやすくした「方便」のようなものとして捉えています。その存在の奥深くにあるエッセンスを感じ取り、自らに染み込ませるようにつとめ敬うのが自然なのかなと思っています。
そのように考えると、ひとりの仏様が変化していくのもナチュラルなことだと思えます。このような捉え方ができるのは、自然崇拝の日本人ならではですね。

光がまわるようなつくり

これらの仏様たちですが表面がマットな仕上がりで、裏面は磨いてあります。そのためなのか、光が差し込んで足元の蓮華座や光背が光っているように見えます。美しいです。よくできています。
どちらもクリアな美しい水晶から作られています。下の画像は裏からみた画像です。

回転動画をインスタグラムにアップしましたので、ぜひご覧ください。

それでは、アップ作業を続けたいと思います。
どうぞお楽しみに。。。

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桑坂 碧

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目に見えないものが普通に認められるようになってきたこの時世に、その時々に少しずつ変わっていく大切なことを逃さず、楽しみ、好きなものに手を伸ばし、書き残してい...

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